東京現代美術館 「石岡瑛子 血が汗が涙がデザインできるか」を観てきた。
毎年お正月三が日のうち、元旦は映画。残り二日のうちどちからは美術館へ行くことにしている。
どちらも大好きなのだが、
言い訳になってしまうが、日ごろはまとまった時間が取れず足を運べないので、
三が日に必ず映画館と美術館へ行くことにしており、”これ!”と思い入れのあるものを選ぶようにしている。
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石岡瑛子との出会い
そもそも石岡瑛子というデザイナーを、実はあまり良く知っていない。
ただ、何かの映画を観に行ったとき「次回上映 予告編」で『落下の王国』の予告編を観た時に、登場人物たちの衣装がエキゾチックで美しく、一瞬にして目を奪われてしまった。
結局、忙しさにかまけて『落下の王国』を観に行くことは無かったのだが、予告編でスクリーンいっぱいに、顔を扇で覆った姫の桃色のグラデーションのコスチュームが、頭の隅にずっとずっと今でも残ってきたのである。
その2年後。
再び石岡瑛子に、TV越しに出会った。
2008年 北京オリンピックでの開会式。
北京国家体育場のアリーナいっぱいに、絵巻が現れた。
その絵巻を時には取り囲み、時には絵巻物の上で
中国の国土・人口の多さを表すようなものすごい数の出演者によるチャン・イーモウ演出のマスゲームが始まったのだ。
マスゲームは個が注目されるよりも、大人数で繰り広げられる団体の美が注目される。
しかし、北京オリンピックの開会式では、一人一人個にも、
そして全体感にも、
両方が素晴らしいハーモニーなのである。
この気持ちよさは何だろう?と考えた時に出た答えが「色」だった。
全体の色彩、そして個々のコスチュームの色がとても気持ち良く、まるで風がすぅっと流れ込んでくるように視覚から入ってくるのだ。
この衣装はいったい誰が?と思ったところで、アナウンサーが「衣装は、日本のデザイナー 石岡瑛子です」と言った。
中国のオリンピックに日本のデザイナーが起用???と耳を疑った時に、今目の前で繰り広げられているマスゲームの衣装と「落下の天国」の姫の衣装とが繋がったのだ。
それから、何かのおりに
例えば映画を観に行った時のエンディングロールで、
CM広告のスタッフ欄や、本屋のデザインコーナーで「石岡瑛子」の名前を、機会があるたびに目で追うことになった。
石岡瑛子 回顧展 血が汗が涙がデザインできるか
「石岡瑛子 血が汗が涙がデザインできるか」は
2020年11月14日~2021年2月14日の間開催されている。
しかし、新型コロナウィルスの影響で会期は変更になる可能性があるため、足を運ぶ前に東京都現代美術館のサイトで確認し、事前入場予約をすることをお勧めする。
サブタイトルが「血が汗が涙がデザインできるか」
会場には、懐かしさも・風も・憎しみも・嫉妬も・やさしさも・夢も・未来も全てがデザインされていた。
普通なら、人がぼんやりとしかイメージできないものを、はっきりとまるで「はいこれ」と手のひらに載せて差し出してくれるみたいに。
私も会社のロゴや、ここぞという時の資料の挿絵をデザイナーへ依頼することがる。
伝えたいことはいっぱいあるのに、いっぱいあり過ぎて頭の中で霧散してしまって、まったくまとまらず漠然としたイメージしかデザイナーに伝えられず、表現力や伝える力の乏しさに自分が嫌になるときがよくある。
しかし、素晴らしい才能を持っているデザイナーというのは、その霧散したイメージを具体的にした上で、もう一歩や二歩先の提案をしてきてくれるものだ。
心底凄い才能だといつもいつも感心する。
石岡瑛子展の会場に足を運んでみて驚いたのは、一歩や二歩どころか、私のような平々凡々な脳みそからは到底思いもつかない、しかし誰が観ても「あ!」と一瞬にして理解できるような、そんなメッセージ力の強いデザインであふれていた。
そう、とてもどの作品も力強い。
パワフル。
「資生堂 ホネケーキ」をご存じだろうか?
資生堂から1958年から今も発売され続けている宝石のような石鹸である。
子供の頃、母親が買って大切に使っていた。
あまりにも綺麗で、濡れた手で触っているうちにふやかしてしまって、叱られた記憶がある。
デパートも無い片田舎に住み、どちからというと倹約家の母ですら「欲しい」と思わせた石鹸。
この広告をデザインしたのも石岡瑛子である。
展覧会場に入ってすぐに、この広告ポスターが展示してある。
美しいのである、石鹸なのに。
それぐらい、石岡瑛子のデザインには人を動かす何かがあるのである。
帰り道で
北京オリンピックでの衣装も展示されたいた。
ボリューム満点の展示で、もっともっと石岡瑛子のデザインはあるのだろうが、これほどの数を集めるのはキュレーターは相当な苦労をされたのではとしのばれた。
個人的には大満足・・のはずなのだが。。。
石岡瑛子という天才を目の当たりにして、打ちのめされていたのだ。
もちろん、私の生業はデザインではない。
ものすごい畏怖と尊敬と、そして強烈な”敗北感”があるのはなぜだろうと、帰りのバスの中で考えた。
彼女は血を汗を涙を、懐かしさを風を憎しみを嫉妬をやさしさを夢を未来を
言葉にならないありとあらゆるものをデザインするために生まれてきたのだ。
では一体、わたしは何のために生まれてきたのだろう???
凡人として生まれてきたのだが、凡人としてどうして?何のために?
そんな人生の大きな宿題に、
まだぜんぜん着手できていないまま生きてきた自分に、
現世での未完了の宿題を思い出させられたのである。